2004/11/25(木)

日記

 夢の中。教室にいる俺。みんなで教師の授業に評点をつけている。でも、俺は内心「俺が逆に教える側だったらどういう評価を受けるのか」などと考えている。目覚めて思う。もう俺も、教師の方にシンパシーを感じる年になったのかもな。

 コンビニに行って、週刊文春とテレビブロスを買う。俺は乙女座なのだが、最近、テレビブロスの占いではいつもろくなことが書かれていない。気分悪いな。

 腹が減ったので、いつぞや半額で買った牛肉を焼いて食う。でも、少し油ひきすぎたか。醤油で中和しながら食う。

 マンガ日記を2日分描く。

 彼女の買った、小谷野敦「すばらしき愚民社会」を借りて読む。面白い。特に作者のキャラに怨念が満ちているところが。「俺はこんなに能力があるのになんで評価されないんだいい大学出て頭もこんなにいいのに世の中では無能でもとにかく調子いいヤツばっかりがもてはやされる悔しいうらやましい」的オーラが満ち満ちている。ネタでやっているのかと思ったら、実はマジらしい。笑える。

 しかし、「遺伝による差」や「性差」に関しての彼の考え方にはどうも賛同できないな。そりゃもちろんそういったものによって個々人が規定される部分はかなりあるよ。でも、それを認めることと社会的システムがそれを前提に構築されることは、全然レベルの違う話だと俺は思うぞ。

 大体、ある一個人を統計的な分析をもって判断するというのは、それが統計でしかない以上、かなり慎重にやらなくちゃいけないことなんだ。もし、統計的集団としてある種の傾向があったとしても、イコールその属性が個人各々の中に存在しているということにはならないのだから。それに、集団間に違いがあるっていったって、ほとんどの場合、「統計的集団間の差」<「その集団内での個人差」なんだし……。平均に見出だせるなんらかの傾向と各々が持つ一般的属性とを混同するのは、抽象化能力の欠如ですよ。

 そして、そもそも、なにが「良い」属性でなにが「悪い」属性であるかというのは、かなり曖昧なものだ。どういった条件を最適化するという意味で「良い」のか。その条件の起源はどこか。それは疑いのないものなのか。もし環境が変わればその条件も変わってくる。無理に決めたら多様性を失う。多様性を失った種は変化に対応できないし……。

 だから、多くの場合、我々の社会ではそういった統計的な属性判断を個人個人に適用することをなるべく避け、結果とリスクについてはなるべく社会全体で再分配/シェアするという形にしようということになっている。それは我々の社会が成り立つ上での暗黙の前提だと思う(この仕組みは一個人が背負いきれないほどの「自己責任」が発生しないための方策でもある)。まあ、これは飽くまで理想であり建前なわけで、現実的な運用にはかなり難しい部分もあるわけだが。

 というわけで、とにかく、社会的システムを語る文脈で、「遺伝による差」や「性差」について言及するのは多くの場合適切ではないのですよ。

 で、寝る前に「宮廷女官チャングムの誓い」。

マンガ日記

 「チャングム!!」 所要時間125分。

今日届いた本

 牧野 剛「されど予備校―予備校から“世界”を覗る」。234頁よりN氏登場。

 

# ヨシヒサ 『教える側が周りに多いしね(>0<)自分が来た道を振り返ると壇上から強く言えない自分が悲しいです(;0;)』

# ソリトン 『まぁ、統計学自体が別に科学でも数学でもないしね。医学も科学じゃないし。最近の血液型ブームには苦情も来ているらしいし。』