2006/05/26(金)

所有欲の源

 朝は、メール書いたり日記書いたり。

 最近、堆肥ケースが一杯なので、そこに生ごみを投入できない。通常の始末をするしかない。モーニングで読んだノウハウを実行。新聞で包んでポリ袋に入れる。

 シンク周りの掃除。ゴムパッキンのカビ除去。

 昼飯は、昨日の残り。

 午後は、個人としての会計処理など。

 晩飯は、豚肉西京焼き+オムレツ+味噌汁+アジの干物+ナスとピーマンとシメジと豚肉の炒め物。

 T君のmixi日記を読んで、ふと所有欲の源について考える。なぜ自分のものにしたいと思うのか。なぜ借り物ではだめなのか。

 私的に所有することによる大きなメリットは3つあると思う。

  • リーチャビリティ(コストゼロですぐにでも利用できる)
  • カスタマイザビリティ(自分向けに分類/改造できる)
  • 権勢欲/自己顕示欲の充足(人に見せびらかせる)

 思うのだが、今の時代のある種の物に関しては、こういうメリットってあまり意味のないものになり始めているのかもしれない。

 たとえば、映像ソフト。仮に「オン・デマンド」の「定額」配信が整備され、しかも、自分のお気に入りリストを適切に属性をいじりながら作れるようになったら、事情はどうなるでしょう?

 たぶん、こういった状況では、好きな映画でもなんでも、思いついたときに探し出せ、すぐに見られるでしょうから、リーチャビリティとカスタマイザビリティへの欲求は、かなりの部分、実際の所有なしに満たすことができるようになるでしょうな。

 そして、3つ目の「権勢欲/自己顕示欲の充足」についても、配信システムが皆にとって当たり前になるのなら、意味がなくなるよな。

 となると、わざわざ私的に所有する理由がなくなるってわけだ。

 つまりは、意外と近い将来に、「ソフト」的なものに関しては、所有欲と呼ばれるものは世の中から消えていくことになるのかもしれない。あるいは、「お気に入りリストを自分流にどうカスタマイズするか」ということが、所有欲の実際となるのかもしれない。

 ……待てよ、もし、なんらかの検閲や配信制御が残り続けるのなら、その対象になるものへの所有欲は残りうるだろう。それは、私的に所有してないと、リーチャビリティがいつか失われるかもしれないから。

 つまりは、パブリックになりえないものへの所有欲は残るかもしれないよな。あるいは、それは「配信不安定性への対処としての欲求」と言ってもいい……。

 まあ、もちろん、車とか家具とか食べ物とかいった、物理的実体こそが本質的なものは、こういう話はあてはまりませんが。

 とはいえ、戦後、配給制度が機能しなくなった状況で闇市が立っていたという状況は、「配信不安定性への対処としての欲求」だったのかもしれませんな。

 まあ、結局の話、不安というのはいつも所有欲の源なのかもしれませんな。そう考えると、一見幸せそうな高度資本主義経済下で、人間がいつも不安感を感じているというのは、つまりは、所有欲をかきたてるためには不安感を必要としているからということで、それはそれでなんだか納得できる話という気がしませんか(納得しないでね)。