2004/04/08(木)

日記

 俺、大ニュース知らずに、新宿で飲んでました。路上に舞う号外で事件を知りました。ショック。このままだと「現実的対応」という名の軍事行動に発展しちゃうんじゃないかとすっごく心配です(もちろんイスラム武装勢力のやったこの行為が卑劣極まりないということにも言及しておきます)。そもそも日本はイラクに派兵すべきじゃなかったんだよ。でも政府にとってはこういったこともシミュレーションの範囲内なんだろうな……。クソ、国家っつーのは一体なんなんだろうな。なぜ、我々は第一義的に「国民」でなければならないのだろうか。そして、なぜ、彼らは国家を代表して生命を云々されなければならないのだろうか。ものすごい違和感を感じますし、やるせないものがあります……。そもそも、俺は、国家という意思決定機構&運用機構の集合体が、あたかも単体で一個の意志を持ったオブジェクトであるかのようにイメージされることに、すごく抵抗を感じてたりします。国家とは概念的存在に過ぎない。手に触れるようなモノではない。でも、記号としての言語は、概念的なモノを現実のモノと同一の地平に並置し、等しく代数的取り扱いを可能にし、そして、現実のモノと同じく、概念的なモノにも実在性があると我々に錯覚させる。そして、その錯覚の上に、「愛国心」とか「国家としての意思」とかが構築される……。でも実際は違うんだ。そういうやり方が有効な時もあるだろうけど、本当は全く違う。国家という描像をベースにした小気味のいい言説や威勢のいい論調、わかりやすい図式的見解には、簡単に与したくない。たとえみっともなくても・かっこ悪くても・面倒くさくても・すっきりしなくても、我々はとにかくぐちゃぐちゃとたくさんのチャンネルを使って、時には国家という枠組みとは違うところで、対話して交渉して取引して、そうやって平和を保っていくしかないんだと思うのですよ。でも、実際の現実ときたら、個人の命を弄ぶ「国家」的取引ばかり……。なんでそうなってしまうのか。国家という概念を越えての連帯の仕方もあったかもしれないのに。国家的アイデンティティや宗教的アイデンティティとは別の枠組みで、社会を変革していく道もあるかもしれなかったのに。なんだか哀しくなりますね。あ、言っとくけど、俺は、アナーキストではないから。国家という意思決定機構&運用機構の集合体の有用性については否定するつもりは全くないから。問題は総体として我々がそれにどんなイメージを付与するかということで……。ちょっと話はそれるが、そういえば軍事的には国民国家という体制は最強なんだよね……。国民というフィクションの強みと恐ろしさですな。で、一応今日の日常的な出来事についても書いておくと、昼飯は肉味噌+ご飯+コンビニサラダ。週刊文春を読みながら、ちょっと仕事したり、 mixi したり。俺の作ったコミュニティへの参加者も増えてきました。嬉しい。夕方頃から、彼女の知り合い関連の人たち(みーんな出版業の人)と新宿の「ナビィとかまど」なる店で飲む。で、冒頭に続く。