2004/07/20(火)

日記

 オス1号が死ぬ。成虫になって40日ほど。連日の暑さがきつかったのだろうか。一番ケンカが強い個体であった。

 窓の外で乾燥させてあったオス3号の遺体は、いつの間にか消えてしまっている。風で飛ばされたか、カラスかなにかがくわえていったか。

 朝のうちに起きたが、しばらくするとバテてきたので、また横になる。活動再開したのは昼過ぎ。

 都心では観測史上最高の39.5度まで上がっているらしい。エアコンについている温度計は室内/室外共に34度を示している。暑いのはもうイヤ。やや風があるのが救い。

 2つの仕事を並行して作業するうちに夕方。

 明日は伯母の告別式。その準備のために彼女は急遽買い物へ。俺は本日更新分の作業のために地下鉄で移動。

 Sくんとも話したが、確かに気温は高かったけれども、意外に我慢できる暑さだったかもしれない。湿度は低めらしい。もう少し温度が低くてもジメジメした日の方が辛いかも。

 作業はつつがなく終了。終電の1本前の電車で帰宅。

 うっかり電車の中で寝てしまって、終点へ。

 吉野家で豚丼を食った後、タクシーで帰宅。

 オス1号の遺体も消えてしまっている。やはりカラスか。図らずも鳥葬というわけだ。お墓を作るにしても、土が露出していて遺体を埋められるようなところは都会には少ないし、かといってゴミ箱に捨てるのは抵抗がある。鳥に食べられて、まあ都合がよかったとも言える。

 結局このへんの「やりにくさ」ってのは近代生活の問題点を照らし出しているのかもしれない。

 本来、死が生命の源になり生命は死に還元するというのが自然界というもの。しかし、人工的「清潔」インフラでは、まるっきりそのへんの事情が隠蔽されている。

 人工的「清潔」インフラで問題になるのは、それが不要であるか有用であるかという一点のみである。我々は、社会的・経済学的に、「ゴミになったもの」と「ゴミでないもの」という即物的な2分法をいつも強いられている。全てのものはどちらかに分類されて適切にパッケージングされなくてはならない。ここには聖性や尊厳といった概念はなじまないし、入り込む隙さえない。

 「生と死」は我々の目には見えないところに隠されている。

 しかし、我々はそれから完全に逃げ切れるわけもない。時々、直面して、うろたえる。

 近代生活とは、パッケージの社会と言ってもいい。日用品のパッケージ。電化製品のパッケージ。食べ物のパッケージ。ゴミのパッケージ。生き物のパッケージ。死体のパッケージ。

 でも、それになじまないものが、やはりあるような気がする。

 次にカブトムシが死んだら、ちょっくら山奥や河原まで足をのばして死体を捨ててこようか。

 なんだかわけのわからんことを書いているな。いかん。少し混乱しているです。

 というわけで、作業を1つすませてから就寝。……といいつつ、寝ていない。どうやら、起きたまま帰省となりそうだ。

 

# nyaolin 『暑すぎます。カブトムシってあんな厚い服着てたら暑くてたまらないでしょうね〜』