2006/03/05(日)

日記

 朝食は、アジと目玉焼きと味噌汁。正しい日本の朝。天気も良い。

 伊勢病院へ。祖母のお見舞い。祖母は夢を見ているよう。柔らかい手。時々目を開ける。指を動かす。1本2本。「1人か2人か」と聞いているのだろうか。

 おかげ横丁へ。すごい賑わい。二軒茶屋内宮前店で牡蠣の土手鍋定食を食べる。

 おひなさまめぐりin二見を見る。YやNが賓日館にて受付案内中。俺はすっかり一観光客。

 以前、バスターミナルだったところには生涯学習センターなる建物が。その中には、900余体のひな壇。迫力。

 おひなさまを見るついでに、自分が昔通った小学校/中学校まで足をのばす。やっぱり町は変化している。記憶と少しずつ違う。

 また賓日館に戻り、YやNとおしゃべり。

 実家に戻る。姪と甥が子犬を見せてくれる。彼らの新しいペット。ソフィーと名前をつけたとのこと。

 駅へ。両親が見送ってくれる。快速みえに乗る。

 彼女と観光活性化について話す。

 新幹線に乗り換え。名古屋コーチンを材料にした駅弁を食べる。

 心というものについて考える。以下、妄想。

やっぱり内側から立ち上っているこの「内観」というべき感覚は、物質に貼りついた本質的なものとして考えるしかないのかなという気がする。
物理的世界とは結局、物理法則にしたがって動く世界全体にまたがった1つの内観そのものなんだろう。
客観的世界とは、外側に厳としてあるのではなく、視覚や聴覚を通して、言語的な内観に投影したものでしかありえず、結局、本質的には、内観としてしか現れ得ないのかもしれない。
そして、意識とは、一続きの大きな内観全体の局所的なカタマリ、1つの島のようなもの。
各部の諸情報が高度にインテリジェントな形で統合された内観が意識という形をとるのだろう。
多分、クオリアと呼ばれるものは、かなりの部分、内観を背負う個々のパーツそのものに潜むといっていいのかもしれない。
視覚のパーツを取り外し、聴覚のパーツを取り外し、味覚のパーツをとりはずし、触覚のパーツを取り外し、長期記憶のパーツを取り外し、言語のパーツをとりはずし……。
最後に残るのは、ゼロなんだろう。
パーツたちは、情報処理体として統合されないばらばらの内観。核となる魂なんて存在しない。
だから、当然、死んだら、意識はゼロだ。意識のない内観のみが残る。
不滅の魂は多分存在しないのだろう。
反対に、適切に設計されたパーツを人間に接続することができたなら、意識は新たなクオリアを感じることができるかもしれない。
それは、パーツの内側から立ち上ってくる。
意識は拡大可能なのかもしれない。
さらに、他人の脳神経との接続も不可能ではないのかもしれない。
そういう意味で、潜在的に、世界全体と僕らは1個のものであると言ってもいい。
1人1人がわかれているというのは、お互いに、表面的な相互作用、言語、あるいは、(内観の一部としての)五感による結びつきしか持っていないというだけのことで、意識として適切に統合されるかどうかは別としても、潜在的には強く接続することも可能なものなんだろう。
きっと、世界のどこかにいる誰かの目は、本質的に1つの内観の、出先の目なんだ。
そして、もしも、いつか全ての生命がいなくなれば、意識のない、静かな内観だけが物理的世界の全てとして残るのだろう。
これは一つの唯心論だけど、でも、俺は、自分の心が全てとか、自分が変われば世界が変わるなんていうつもりはない。
内観はきちんと物理法則に従っているし、意識が適切に構成されれば、その物理法則の規則性を当然感じることができるはず。
自分の心は、一続きの大きな内観全体の一部、小さな島なんだから。

 東京駅に到着。何ら演繹的回答を与えない思考を打ち切る。

 東京駅5番ホームにある、不思議な緑色の柱に気付く。誰か由来をご存知でないですか。

 有楽町駅から一駅分歩く。実家のあたりとは全く違う町並み。

 帰宅。すぐに就寝。