2004/08/27(金)

日記

 家でごろごろしてばかり。すっかり寒くなった。布団が恋しい。

 ザ・シンプソンズ シーズン 4 DVD コレクターズBOXの最初の3話を見る。面白い。

 夜、ちょっと仕事絡みのことをする。うーむ、うまく動かんな。まあ、いいや。

 晩飯はハマチの照り焼き+味噌汁+サラダ+梨。魚を食うと、なんだか体にいいものを食っているという気分がして、非常に豊かな気持ちになる。

 彼女から借りた「「分かりやすい説明」の技術」を読み終わる。うーむ、いまいち面白くない本だなあ。彼女もそう感じたらしい。そもそも、「説明」に対して求めているものが、この本の著者と俺とは完全に違っているようだ。他人を自分の意思どおりに誘導することが「説明」の最大の目的なのか? それは単なる詭弁の一種でしかないんじゃないか? むしろ、考えるという態度、思考の過程を他人に見せて、それを他人が内在化するための契機を与えることこそ重要なんじゃないか。それを望まない聞き手には……説明しても無駄かも(なんて言っててはビジネスはできないわけですが)。

 それから、これまた彼女が買った森達也「放送禁止歌」を借りて読む。うむ、判断停止・思考停止からくる自主規制こそが問題ということか。

 夜、シンクロを見る。うーん、サムライだとか阿波踊りだとか、もっと他になんかないのかね。外国人にとって「わかりやすい」日本を見せるということなんだろうけど……。でも、それでいいのかね。それが理解につながるのかね(大体サムライなんて、ごく一部の支配階級だぜ。我々の先祖のほとんどは、彼らに支配される側の階級だったというのに←いや、単純な階級史観に与するわけではないのだが)。

 さっきの本の内容にも関連するけど、しかし、この気安く「わかりやすさ」を求める態度ってのはなんとかならんのかね。多くの場合、結局それは思考停止でしかないような気がする。テレビがまさにそうなんだけど、我々の生活は、わかりやすい議論、単純な図式、簡単に逃げ込める結論……といったものに毒されすぎている。でも、ほとんどのことってそんなに簡単に割り切れるものじゃなくて、もっとモヤモヤしたもののはず。本来なら、そういったものを、簡単な結論に逃げることなく思索した後にこそ見えてくるものがたくさんあるはずなのに。でも、テレビでは「わかりやすさ」が求められるんだ。よくわからないということを前面に出すと怒り出す人がいるんだ。実用的でパッケージ化されていて、でも思索の深みなんてものはちっとも持たないその場限りのわかりやすい説明ばっかり求められるんだ。じゃないと番組がまとまらないから。 実は、こういう事情って、仕事とか教育の現場でも同じだよね。これ以上詳細は書かないけど。でも、たゆまぬ思索と論理の内在化なしに新しいことはできませんよ、結局。

 ま、結局は、世の中の情報が多すぎるというのもあるんでしょう。いろんな物事を自分の頭でいちいち思索して判断するのは、どんなに強靭な知性があっても難しいだろうからなあ。でも、表現したり情報を提供したりする側は、もう少し考えてもいいんじゃないかと思います。

 ま、実は、かくいう俺も、わかりにくい説明にぶちあたるとすぐ腹立てる方だけどね。特に街中にある誘導表示なんかがわかりにくい時にはもうカンカン。いや、これも実は情報を提供する側がなにも考えていないから生じる現象なんだけどね。

 あ、そういえば、今日は俺の兄の誕生日。「おめでとう」とこの日記に書いておこう。

 

# tomo 『面識はございませんがお誕生日おめでとうございます。』

# ヨシヒサ 『お誕生日おめでとうございます。弟さんにはいつもお世話になってます。』

# ヨシヒサ 『「分かりやすさ」って難しいよね(>_<)分かりやすく人に教える事出来たりすると、得意気になってしまいます。』