2006/06/07(水)
浅草散策
朝飯はパン。
夫婦で浅草へ。SさんとEさんに会う。Eさんは「幻獣標本採集誌」という本を出版したばかり。お会いするのは初めて。
以下、立ち寄ったところのメモ。
山宮商店(傘屋さん)へ。2005/03/12に和傘を買ったお店。店のおじさんおばさん娘さんに色々話を聞く。外は急な雨。天気予報ではずっと曇りのはずだったのに。傘屋で雨宿りするという変なことに。
雨が上がった後は晴れ。日差しが強い。彼女は買ったばかりの日傘をさして歩く。うちにはこれで和傘が3本目。
浅草むぎとろでランチ。
ギャラリー・エフ。古い土蔵(1868年築)をカフェ兼ギャラリーとして利用している。
熊野屋(乾物屋)。看板が読めなくて、熊聖屋かと思いましたよ。
ふじ屋(てぬぐい屋)。
浅草寺前の島そばでメロンパンを買う。蕎麦屋なのに移動販売プレールの加盟店なんですな。
浅草公会堂。芸人の手形がたくさん。
初音小路飲食店街。タイムトリップしたかのような風景。通りにはヌカミソのニオイが。
花やしきの向かいには、軍装なども売っている謎の洋服屋、ふきや商店。
また山宮商店の前を通る。おじさんがこちらを見てニコリと笑う。
東京ハネー総本店。蜂蜜について色々聞く。
合羽橋珈琲に入る。ここもギャラリーとして利用できるらしい。
神谷バーへ。隣の席のおやじが妙に陽気。
今日はずいぶんたくさんのところを見て回りましたな。
職人とアーティスト
で、帰りの電車では、職人とアーティストの対比について考える。
現代の日本では、アーティストというと、作家性とか、個性とか、あるいは、著作権/知的所有権とかいったものと結びつけて考えられることが多いわけだが、それに対して、日本の昔からの職人の世界って必ずしもそうじゃないよなあ。
そもそも、著作権っていう概念は、別に当たり前のものでもなんでもなくて、元々は、生産に対して対価を得るための便法なんだよなあ。
極端に言えば、仮に生産者が、他のなんらかの方法で経済的基盤を保ち続けるような仕組みがきちんと整っていて、かつ生産者へのリスペクトが社会的にきちんとなされるのであれば、著作権なんてものを持ち出さなくても、実際は万事OKだったりするんだよなあ(この辺、山形浩生の考えに影響受けてます)。実際、タダでソフトを作って配っている人って、そういう感じに近いわけだし。
昔気質の職人ってのもそういうセンスに近い部分を持っている気がする。わざわざ職人の名前を表に出さなくても、きちんと暮らしていくためのお金は得られる仕組みがあるからいいという感じ。独自性の主張についても、作家性というものとはちょっとトーンが違っているような。技術を誇ることはあるにしろ。
つまりは、職人の生存を保障できるだけの産業として成立した「工芸品」「工業製品」において、知的所有権や著作権は必ずしも強調される必要はないということで。パトロンによる庇護下にあるアートについてもそういうところがあるかもしれない。
結局の話、「作家性/個性/著作権/知的所有権」の主張ってのは、近代的な産業構造からの要請によって生まれたという部分が大きいのかもしれない。そういった概念を援用・利用していかないと、食っていくだけのお金が確保できないという意味で。
「人真似でない、新しいものを生み出すことがアートである」と定義する人々も多いが、それは、近代的産業社会の制約抜きにしてもそう言えるものなのか……その辺は、やっぱり意識した方が良いのかもしれない。
特に、それが著作権や知的所有権の主張として現れるのであれば。
作家抜きに作品そのもののみに目を向けるならば、盗用と剽窃の繰り返しから育っていく世界ってのもあるんですよね。そして、時にそれは伝統と呼ばれるものになっちゃったりもするわけですが。
今日のスパムメール
最近のスパムは、色々文面を工夫していて、面白いですな。
突然申し訳ありません。 貴方は私のママとメール交換をしていたことがありますよね。 多分、貴方とは男女の関係だったと思いますけど…。 でも、それに怒ってメールしたわけではないのです。 実は、お願い事があって連絡しました。 とても言いづらいのですが、私の先生になってもらえませんか? 私の名前は真希と言います。
スパムは今、二者的世界からから三者的世界へ。
# ヨシヒサ 『何の先生に・・・?』
# morimon 『何の先生でしょうね。数学の先生なら、権利をヨシヒサさんに譲るところですが。』
# Satoです 『昨日は楽しかったですね〜!濃厚な一日でした。帰りの電車の中で、こちらは菖蒲園の話しをしていました。(笑)それにしても、メモを取っていた重要性がわかりました!この日記にびっくりです!!すごい!!復習しよっと。』
# morimon 『ほんとに備忘録なんですよね。最近は物事を忘れるのが惜しくて……。』