2005/05/22(日)

日記

 今日の第一食はカレー。敢えて、俺は、第一食という言い方をした。なぜなら、朝飯は普通食わない……というか、俺はそもそも健全な朝にはまだ起きていないからなんだな。困った人ねえ。

 それでも彼女が在宅中は、なんとなく昼飯夜飯についてはきちんと食うことになるのだが、今日は、あいにく彼女は外出。取り残された野獣は、1人そのへんのものを貪り食うかと思えば……うっかり食い損ねました。彼女が夜に帰って来るまでなにも食わないままでした。いかんな。

 で、今日は日中になにをやったかと言うと、2日分のマンガ日記描いて、その後、今更ながら使用ソフト ComicStudioPro Ver.3.0 の、Ver.3.0 以降で追加された新機能についていろいろ調べて試して、諸設定いじって……。

 あ、それから、メールの返事を各方面に書いたりもしました。

 晩飯は、牛スジのどて煮。ワイルドで美味い。

情報が距離と体積を喪失した後に来るもの

 今話題の「個人情報」。

 昔はそんなの誰も気にしてなかった。学校でも職場でも、なーんにも気にせずに当然のごとく名簿を作り、配布し、閲覧していた。電話番号なんてあんまり気にせずに教えていた。個人の住所なんかも何の配慮もなく平気で雑誌や新聞に載っていた。

 でも、いつの間にやら、だんだんと個人情報というものが大事なものとして取り扱われるようになってきた。

 え、それってそんなに大事なものだったのか!? なんだか「個人情報」が再発見されたような趣さえ漂っている。一体なにが変わってそんなことになってしまったのか? ちょっと不思議。

 まあ、誰でも考えるとおり、これは情報を届けるインフラの発達に関連しているはず。

 郵便配達は瞬時ではなかった。

 電話で大量の情報を伝えるには、非常に時間がかかった。

 新聞や雑誌、ラジオやテレビは僕らが直接使えるメディアじゃなかった。新聞や雑誌については瞬時でもなかった。

 たくさん個人情報を集めたところで、それを処理するのは膨大な時間がかかった。

 だから、ちょっと前までは、個人情報の取り扱いが問題になることって、少なくとも今よりはずっと限定的でしかなかった。

 でも、今は違う。インターネットとコンピュータの発達は、情報の物理的「距離」と「体積」を完全にとっぱらってしまった。各情報への距離は完全にフラットになったし、100万人のデータを記載する記録装置は掌の上に載せることが出来る。

 距離がなくなった。地球の裏側の情報も、好きなあの人の情報も等距離で届くところにある。

 体積がなくなった。何千人のデータが記された帳面をひーひーいいながら持ち運ぶ必要がなくなった。

 うむ、この情報における「距離」と「体積」の喪失という切り口は、結構ものごとを見通しよくしてくれるような気がするのだ。

 たとえば、以前にこの日記で書いた、デジタル通貨についての不安感。あの不安感の起源は、デジタル情報における体積的なものの欠如だと僕は思っている(2003/12/23 のマンガ日記参照)。

 それから、mixi に代表される SNS の意味。これも日記に書いたが、あれは距離空間を再構築する試みと捉えることができる(2004/04/07 の日記参照)。

 そこで、なんとなく思うのだが、実は僕らは、情報に「距離」と「体積」がなくなってしまったのを不安に思っていたりしないか。世界へのつながりが拡散していくようで、怖いと感じてるんじゃないか。

 昔はそんなことはなかった。情報は主に、家族や学校や職場やご近所から伝わってくるものであり、情報には自然な物理的距離が備わっていた。隣町の情報でさえ、入手するのは大変だったし、でも、そもそも、そんな情報、あんまり必要でもなかった。僕らはただそこにいて、周りを見渡せば良かった。必要な情報は、僕らのそばにいつもあった。必要でない情報は、普通はどこか離れた場所にあったし、だから気に留める必要さえなかった。情報は、その物理的距離が遠くなるにつれ、なだらかにグラデーションを描きながらその必要性を下げていった。

 だけど、今は違う。全ての情報が電子情報という形で、僕らの手の届くところにある。手に入れようと思えば簡単に手に入る。すべてがフラットな距離で。

 うーむ、なんだかちょっと混乱しませんか?

 なんとなく、僕は思うんだけど、僕らは無意識に、この情報化社会でも、過去に存在した情報の物理的「距離」「体積」のかわりになるものを求めているのではないかな。

 たとえば、デジタル通貨では、「暗号」の強度というものを「距離」と「体積」のかわりにしている。つまり、暗号を解くのにかかる困難さ、あるいは時間を、距離的なものだと見立てて、情報と人間の間に、近さ・遠さを導入しているわけだ(でも、ほどほどに遠いってのはあんまり好まれないようですな)。

 また、mixi などの SNS では、過去の人生において知り合った人間への近接性を距離のかわりにして、ネットワークを構成している。親しい人の情報のみが手の届きやすい場所に置かれるような仕組みになっている。

 Google に代表される検索エンジンだってそういう文脈で捉えることができる。ページの表示ランキングは、我々のために検索エンジンが作ってくれた擬似的な距離なわけだ。上にあるものほど近くで、下にあるものほど遠くで……。で、1ページあたりの分量も人間が一度に理解できる程度にうまくまとめて……(まあ、このへん、誰にとっても同じ「距離」順位が適用されるというのは、旧来の物理的距離と比較すると、ちと奇妙で不自然という感じもするが)。

 それから、Amazon のおすすめだってそういうものの1つなわけだ。

 なんだか、最近のネットビジネス状況を概観するみたいな感じにもなってきますな。

 おそらくは、みんな、意識的・無意識的に、いかに「距離」と「体積」的なものを再びエミュレーションするかということを、一生懸命考えているのだろう。

 そして、本来なら距離ゼロの特異点として存在するべき自分自身の個人情報。これをどう扱うかが問題になってきているわけか。

 こういう切り口、単なる言葉の言い方の問題と言えばそうでしかないんだが、僕の頭は少し整理されてきた気がしますよ。

 うーむ。

 そして、これから大きな意味を持ってきそうなのは、言語的距離や文化的距離?

 なんだか、反動としての妙なエミュレーションがなされないよう、少し見張る必要もあるかもしれませんね。

マンガ日記

 「おなかが空きすぎると……」 所要時間150分。