2004/04/15(木)
日記
「銀座+イカスミパスタ」で検索してこのページに来る人が大勢。なぜ? テレビかなにかで銀座のイカスミパスタが食える店がとりあげられたの?
昼飯は、海鮮キムチ+ご飯。こればっかり。
今日は自宅作業。
夕方よりジャスコにて買い物。トイレの電球が切れているので買う(というか、入居してから1年経ってないのに、同種の電球は次々切れている。どういうことか)。それから、昨日でお米を食い尽くしたので買う。面倒くさがりの時代に育った僕らはもちろん無洗米。
買い物から帰ってきたら……3邦人解放のニュース(を mixi の中の記事で知る)。無事でよかった。でも、渦中の彼らは情報を制限された状況にいたわけで、なんとなく「浦島太郎」的な雰囲気も漂っている(語弊あり)。これから説明責任を果たしていかなくてはならないわけだが、それはかなりキツイものになるだろうね……。仕方ないところもある。一方、行方不明の2邦人については相変わらず情報がない。
晩飯はジンギスカン。
今日のmixi用似顔絵は「書き文字」系←意味不明。大学時の友人達を数人招待する。
自己責任?
ここ数日、人質事件があって以来、あちこちで「自己責任」という言葉を耳にする。そして、多くの場合「『自己責任』で行った以上、彼らの生命が失われるようなことがあっても止むを得ない部分がある」という文脈で用いられている。でも、実は俺は、こういった物言いを聞くたびに、ものすごい違和感を感じている。それは「『自己責任』って呼ばれるものの中身って一体何なんだ?」という疑問から発するものだ。「自己責任」という概念はそんなに自明なものなのだろうか。
そもそも社会的構造によって、「自己責任」とみなされうる範囲は変化するはずなのだ。たとえば、我々の社会では、「障害者がその障害故に生活に不便をきたすことがないよう社会基盤を整えるべきだ」という見解は(程度の差こそあれ)ほぼ共有されているし、実際行われてきている。でも、考えてみると、もし、「自己責任」という立場を一番過激な方へチューニングすれば、「切捨て」という選択もありえたのだ。曰く「自分のことは自分で」「社会に頼るな」。だが、我々の社会はそれをフェアだとは考えない。それは「自己責任」の範囲ではないと考えるのが普通だ。「自己責任」という概念がどこまで有効かという問題は、かなりのところ、社会構造によって規定される部分を持つのだ。
だから、高度に産業化された社会、共産主義社会、農村社会、封建制の生きている社会……それらにおける「自己責任」とはすべて異なったものとなるだろう。おそらくは状況によって、以下のような概念と結び付けられたりする:「滅私奉公」「食糧の自給自足」「経済的自立」「競争化社会」「愛国心」……。これらの概念は、必ずしもユニバーサルなものではないことに注意すべきだろう。
では、高度に分業化され、極度に多面性を持つようになった現代社会においては、いったい我々はどこまでが「自己責任」で、どこからがそうじゃないと考えればいいのだろう。
食糧自給?
いや、現代社会においては、それは、多分、違う。では、
火事などの災害にあった場合は?
詐欺犯罪に巻き込まれた場合は?
社会全体の経済的状況や政治的状況のアオリを食らって会社が潰れた時は?
年金などの社会保障は?
社会的な役割を果たすべくおこなった行為については?
地雷除去活動をしていて怪我をした場合には?
自由な報道のために危険な地帯に足を踏み入れたら事故にあったというような場合には?
……だんだん俺は、結局どこまでを個人の「自己責任」に帰着していいのかがわからなくなってくる。現代社会においては「自己責任」という言葉は極めて定義しにくいものになっていると思う(近代社会が、「自我を持った個人」という概念から出発していることを考えるといささか逆説的状況ではあるが)。
さらに、今回の事件に即して言うならば、我々は政府発表以外の報道を日常的に見聞し、それを判断の材料としているという事実がある以上、もしかすると、我々の責任のある部分をジャーナリストに対して委譲している側面があるという考え方もできるかもしれない。また、ボランティア活動をしている人たちについても、紛争地域における状況やそこで必要とされている行為が、我々が暮らしている現代的な高度消費社会の代償として発生しているという現実がある以上、同じようなことがあてはまるかもしれない。
多分、「自己責任」とは、純粋に切り取りのできる概念ではないのだ。社会の相関性の中で、近似的に(あるいは便宜的に)用いられる概念だと考えなくてはいけないのだ。
別に俺は、こういったことで、今回の事件への言及で飛び交っている「自己責任」という言い方の全てが間違っていると言っているわけではない。でも「自己責任」という概念がそんなに自明なものでもないことは、やっぱり強く意識すべきではないかと思うのだ。