2004/05/20(木)

日記

 昼食は麦酒蔵から取り寄せた伊勢うどん。醤油屋だけあってツユが美味い。

 ずっと前に買って読まないままでいた、四方田犬彦「ハイスクール1968」を読み始める。地方で育った俺とは全く違った高校生活。俺のそれには、サルトルも大江健三郎もデリダも朝日ジャーナルもなかったな。俺が政治に関心を持ち始めたのは高校2年くらいからだと思うが、無知識かつ独善的観念をもってすべてを判断しようとしていた(それは今でも変わらない)。それを諌めたり、違う視点を与えてくれたり、バカにしてくれる人たちが身の回りにはあまりいなかったように思う(いや、いるのに気付かなかっただけか)。違う場所で違う人たちに囲まれていたら、俺の生き方もまた別のものに変わっていたのかもしれないなと思う。

 振り返ってみると、高校時代ってまさに世界に対する認識の根本が形成される時期だった。

 今でも思い出す。自分の部屋のベッドの上で、人間の生きる意味についてじっと思索していた時、突然ある考えに至った。

 「人間社会における倫理とか愛とか正義とかって進化論的自然淘汰の結果として選びとられたものに過ぎないのでは」。

 その瞬間が俺の人生において、人間の生きる意味や倫理や宗教は決して超越的に存在するわけではないと思った最初だった。

 我々に生きる意味はない。ある自然条件の下、生きる我々が選び取られただけだ。生きるように体が条件づけられ形成されているから生きる。生きる理由というのはそれだけなんじゃないか。

 そう思ったのだ。

 俺は、得意になって自分の親に話した。「人間はなんで生きるんだと思う?」「生きるようにできているからなんだ」。

 そしてさらに考えた。条件づけられたとはいうものの、我々人類の知性は最早、自然淘汰の上で有利であるという条件を逸脱し、過度な自由性を手に入れてしまっているように思える。ということは、(超越的には存在しないことがわかった)倫理や宗教にも自然淘汰的な諸条件にも束縛されないような、もっと大きな自由性も持ちうるのではないか。我々はもっと自由に生きられるのではないか。

 そうだ、俺はもっと自由に生きよう!

 ……大人になってみると、こういったモノの考え方は、ダーウィニズムと実存主義を混ぜ合わせた、そんなに珍しくもない考え方のような気もする。また、論理としてもいささかナイーブに過ぎるかもしれないとも思う。超越性についての今の俺の考えは、これとはかなり違ったものとなっているし、自由が他から独立して存在しうると信じているようなところも少年的と言わざるを得ない。それに、自然淘汰の概念をベースにした議論の有効性もあくまで限られたものだろう。とはいうものの、こういった考え方は、俺の思考様式の根本の部分にはやはり残っているし、そう思うと、高校生の時の俺と今の俺が連続的につながっているということを実感できるのだ。

 で、そんなことを思い出しながら風呂に入る。

 突然、頭の中で「何を待っているのだ」という声がする(いや、幻聴とかじゃなくてさ、そういう言葉が浮かんだってだけなんだけどさ、ちょっと大げさに書いてみたかっただけ)。しかし、まあ、そうなんだよな。最近、比較的自由な時間が増えたはずなのに、あんまり生産的な行動をしてないんだよな。なんとなくなにか新しいことが世界に起きるのを受動的に待っているような、そんな雰囲気。でも、待ってたって仕方ないんだよな。自分が動かないと何も変わらん(せいぜい、今飼っているカブトムシが蛹になって成虫になるくらいのもの)。いかんな。

 風呂を出て体を拭く。着替えを探す。パンツがない。裸であちこち探す。やっぱりない。洗ったままのパンツならあるが……。体が冷えてきた。しょうがない、しばらくはバスローブをはおってしのいで、その間に乾燥機でパンツを乾かそう。情けない。

 パンツも乾いたので、身支度し、今日もジャスコへ。餃子の材料などを大量購入する。

 帰ってきてからはまた餃子作り。包むのにも大分慣れてきた。どんどん作れる。

 遅い晩飯は当然餃子。主食の座をご飯から奪う。餃子ばかり何個も食べる。食べながら麦酒蔵からネット通販で取り寄せたビールを飲む。む、これは美味い! 高いだけはある。すかさず追加注文をする。

 満腹になったので寝る。